森喜朗
■森喜朗(もり よしろう)
□肩書き
政治家 第85代内閣総理大臣
□本名
森喜朗
□生年
1937(昭和12)07.14(蟹座)
□出身地
石川県能美郡根上町
□出身校
浜国民学校
金沢市立高岡町中学校
石川県立金沢二水高校
早稲田大学商学部
□略歴(満年齢)
69年(32歳)無所属で衆院選に初出馬・初当選(トップ当選)。
00年(63歳)第85代内閣総理大臣に就任。
14年(77歳)東京五輪組織委員会会長に就任。
□趣味
ゴルフ
■森喜朗
□幼少時代〜
・父親は根上町長。
・祖父は根上町長。
・長男。
・築100年以上の旧家に住んでいた。
・大地主だったが父親は、終戦後に農地改革が全国で実施される前に、
自主的に土地を小作農十数人に提供した。
・町の人から「森のボクちゃん」と呼ばれるおぼっちゃまだった。
終戦後の物不足時代、友人たちは布のグラブで野球をしていたが、
森は革のグローブを使っていた。
・小3の時、父親が根上町長に無投票当選。
※以後9期連続無投票当選
・中学時代、バスケットボール部。
・高校時代、スリムな長身で前髪を伸ばしていて、女の子によくモテた。
・高校時代、ラグビー部(主将)。
ポジションはスタンドオフ(司令塔)。
年5回の県大会のうち4回優勝、1回だけ優勝できなかった試合後に声を上げて泣いた。
・大学時代、胃潰瘍でラグビーを断念。
・大学時代、弁論部(早大雄弁会、副幹事長)。
・大学4年の時、自民党学生部に入党。
青年部全国中央常任委員に就任。
■森喜朗
□私生活
・好物…シューマイ弁当。
・たくさん食べる。
・前立腺がんの手術を受けた(=02年)。
・肺がんの手術を受けた(=15年)。
・いきつけ…
「割烹たむら」(銀座)。
「クラブ順子」(銀座)。
■森喜朗
□人間関係
・青木幹雄…小渕政権、森政権の官房長官。早稲田大学雄弁会の先輩。
大学時代、青木を雄弁会の幹事長にするために奔走した。
・小渕恵三…総理大臣だった小渕が脳梗塞で倒れて緊急入院、
当時自民党幹事長だった森が後継者として指名され総理大臣に就任。
早稲田大学雄弁会の2年後輩。※00.05.14他界(享年62)
・加藤紘一、山崎拓…森の首相在任中に造反を企てた(加藤の乱=00年11月)。
野党の内閣不信任案に賛成しようと計画、加藤派が分裂して失敗。
・釜本邦茂…森が口説いて参院議選比例区に自民党から立候補(落選=01年)。
・松井秀喜…同じ町出身。森は松井の後援会長。
・米田欣二…小学校の同級生。一緒に野球をした。
・篠田和美…高校の同級生。同じ汽車で通学した。
・小池田康成…高校の同窓生。初出馬の時に協力して貰った。
・智恵子…61年結婚。
・子供:
長男…祐喜。37歳(=02.02現在)。
■森喜朗
□エピソードなど
・大学卒業後、サンケイ新聞東京本社に入社、日本工業新聞に配属。
・サラリーマンを辞めて衆議院議員・今松治郎氏の秘書になる(=63年)。
・無所属で衆院選に初出馬・初当選(トップ当選=69年)。
浮動票を取る為にスカイブルーの上着に白のスラックスで天下国家を説き、
若さと理想を前面に出して運動した。
・政治信条は「滅私奉公」。
・主な役職:
83年 文部大臣(中曽根内閣)
92年 通商産業大臣(宮沢内閣)
93年 自民党幹事長
95年 建設大臣(村山内閣)
・総理大臣に指名されたいきさつを「密室談合」と批判された。
・首相在任中に中央省庁が1府12省庁に改編された。
・えひめ丸沈没事件の際、一報の後もゴルフを続けた事を批難された。
・森政権末期に内閣支持率が約6%まで低下、
マスコミに「蜃気楼内閣」と揶揄された。
・首相在職日数387日の短命内閣。
・秘書時代からの習慣からか自ら細かく指示を出す。
地元の新聞のお悔やみ欄に目を通して誰に弔電を打つかを指示。
地元でのパーティーや会合の席順を自分で決める。
・周囲への気配りの良さに定評がある。
・絵本「あひるのアレックス」出版(フレーベル館=05年)。
・失言・問題発言(要旨):
「日本は天皇中心の神の国」(神道政治連盟国会議員懇談会=00.05.15)
「(無党派層が)寝ていてくれればいい」(新潟市内での演説=00.06.20)
「子供を産まなかった女性を税金で面倒を見るのはおかしい」(=03年)
「あの子(浅田真央)は大事な時には必ず転ぶ」(=14年1月)
「女性がたくさんいる会議は時間がかかる」(JOC臨時評議委員会=21.02.03)
・女性蔑視発言で東京五輪組織委員会会長を辞任(=21.02.12)。
凡例:20.01現在=2020年1月現在