沢松奈生子
■沢松奈生子(さわまつ なおこ)
□肩書き
テニス選手
□本名
沢松奈生子
□生年
1973(昭和48)03.23(牡牛座/O型)
□出身地
兵庫県西宮市
□出身校
デュッセルドルフ日本人学校
私立夙川学院中学校
私立夙川学院高校
松陰女子大学卒業
□略歴(満年齢)
91年(18歳)全仏オープンベスト16。
95年(22歳)全豪オープンベスト8。
98年(25歳)現役引退。
※主な出演:
テレビ「ちちんぷいぷい」「素顔が一番」「ひるおび!」
ラジオ「かんさい土曜ほっとタイム」
□趣味
スキー
□サイズ
168㎝
□特記事項
・叔母は沢松和子
・WTA世界ランキング14位(最高位)
■沢松奈生子
□幼少時代〜
・父親はテニス選手。ウィンブルドン混合ダブルスベスト16。
・母親はテニス選手。ウィンブルドン女子ダブルスベスト8(=70年)。
・母方の叔母・和子はテニス選手。ウィンブルドン女子ダブルス優勝(=75年)。
・祖父はテニス選手。関西テニス協会副会長。
・曾祖父は大阪貿易の創始者。
・弟がいる。
・JR西宮駅から徒歩5分、敷地700坪、11部屋の大豪邸に住んでいた。
自宅の庭に曾祖父が作ったテニスコートがあった。
※阪神大震災で倒壊(家族は無事)
・子供の頃、同居していた叔母(当時はまだ現役選手)が自宅のテニスコートで練習していた。
・テニスを始めた頃、打ち返した球が相手コートに入っただけで
両親が「うまい! 奈生子は天才だ!」とほめてくれた。
・子供の頃、テニスをやるのは当たり前だと思っていた。
・家族全員が22:00までに寝て5:00には起きていた。
・5歳から10歳まで父親の仕事の都合でドイツ・デュッセルドルフに住んでいた。
・6歳の時、両親と一緒にウィンブルドンを生観戦、「ここでテニスをやりたい」と思った。
・ドイツ時代、サッカー、水泳、スキーをやり、
「自分は団体スポーツに向いてない」と感じた。
・ドイツ時代、地元の州のテニスの大会で優勝。
・ドイツ時代、ドイツ人の友達とドイツ語で話していた。
・ドイツ時代、日本人学校の野球チームに参加(エースで4番)。
・ドイツから帰国後、専門のコーチをつけて本格的にテニスを始めた。
朝5:00から2時間練習、午後は基礎体力作り、土日は1日中コートに立った。
・中学時代、成績優秀だった。
・中3の時、生徒会長。
・両親から一般常識に関して厳しく躾られた。テニスに関しては怒られた事はなかった。
■沢松奈生子
□私生活
・好物…レモンパイ。
・テレビの時代劇が好き。
・現役引退後、テニス以外にジョギング、スキーなど色々なスポーツをやっている。
・いきつけ…
レストラン「みやす」(三宮、神戸牛ステーキがおいしい)。
ケーキ屋「エルベラン」(夙川駅前、子供の頃から利用)。
大丸デパート神戸店。
・一度決めた事は絶対に変えない主義。
・好きなタイプ…おおらかな性格の男性。
■沢松奈生子
□人間関係
・雉子牟田明子、雉子牟田直子、遠藤愛、神尾米、長塚京子
…友人。元プロテニス選手会「いちご会」のメンバー。
・ガブリエラ・サバティーニ…友人。
・伊達公子…現役時代のライバル的存在。
初めて対戦して完敗した時にテニスのレベルの違いに愕然とした。
・神尾米、杉山愛、松岡修造…同時期に活躍したテニス選手。
・馬場宏之…子供の頃からの専任コーチ。
・立浪和義…憧れている人。
立浪が甲子園に出場した時に望遠カメラを持って連日通って応援した。
■沢松奈生子
□エピソードなど
・アジアジュニア選手権優勝(=85年)。
・ドイツでジュニア選手のサーキットに参加して6大会中5大会に優勝(=87年)。
・全日本ジュニア選手権2位(=87年)。
・全日本テニス選手権初出場初優勝(=88年)。
・ウィンブルドンジュニアでベスト4(=89年)。
・ジュニア時代、各大会で必ず優勝する男の子に恋心を抱いていて、表彰式でその男の子
の隣に立つ為に優勝した。
・ドイツ時代からテニスで負けるのは大嫌いだった。
・全日本テニス選手権決勝の前夜、優勝した瞬間のガッツポーズの練習を繰り返した。
・全日本テニス選手権優勝後、負けてはいけないというプレッシャーを感じるようになり、
初めてスランプになった。ラケットを見るのも嫌な時期があった。
・日本初の女子大生プロテニスプレイヤー。
・「沢松家のテニス」は伝統的に守勢下の攻勢防御でベースラインプレイを重視。
・本来ののんびり屋でアバウトな性格を出さないように意識してした。
インタビューを受ける時は自分で「理想の沢松奈生子」を想定して受け答えしていた。
・メンタルが試合の勝ち負けを左右する事が多かった。
・世界ランク50位内を10年間キープ。
・ツアー中は旅の連続で時差ボケになる暇がなかった。
・試合に負けた事を忘れたくて賞金の小切手を粗雑に扱い、
5年後に発見した時には期限切れだった。
・全豪オープン1回戦の当日に阪神大震災で実家が倒壊(=95年)。
棄権して帰国する事を考えたが、叔母・和子に
「負けても帰る家はないのよ。神戸の人たちのためにもつまらない試合をしちゃ駄目」
と言われて奮起して勝利、その後伊達公子と杉山愛を破って自己最高のベスト8に入った。
大会後に世界ランクが14位に上がった(自己最高位)。
・実家の倒壊でトロフィー・賞状・アルバムなどは瓦礫の下になった。
・7度目のウィンブルドン挑戦で子供の頃からの夢だったセンターコートに立った(=96年)。
記念に芝をこっそり持ってきた(=96年)。
・試合中にガットの交差点などを凝視して集中力を高めた。
・自伝的エッセイ集「ウインブルドンの風に誘われて」を出版(=99年)。
・母校・松陰女子大学の体育講師を務めた。
・母・順子が「素顔が一番」に出演(=03年6月6日)。