栗城史多

栗城史多

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■栗城史多(くりき のぶかず)

 

□肩書き

 登山家

 

□生年

 1982(昭和57)06.09(双子座)

 

□没年

 2018(平成30)05.21(享年35)エベレスト下山中に転落死

 

□出身地

 北海道今金町

 

□出身校

 北海道檜山北高校

 

□略歴(満年齢)

 04年(22歳)北米大陸最高峰・マッキンリーの単独登頂に成功。

 07年(25歳)ヒマラヤ初遠征で世界6位の高峰チョ・オユーの単独無酸素登頂に成功。

 09年(27歳)世界7位の高峰ダウラギリの単独無酸素登頂をネットでライブ中継。

 

□特技

 スキー

 

□免許・資格

 普通自動車免許

 

□サイズ

 162㎝ 60㎏


■栗城史多

 

□幼少時代〜

・父親は眼鏡店を経営。

・次男。

・豊かな自然に囲まれた人口約6000人の田舎町で生まれ育った。

・父親は身体に障害を持っていた。

・子供の頃は泣き虫だった。

・子供の頃は喘息持ちで体が弱かった。

 母親に言われて通い始めた空手教室をすぐに辞めてしまった。

・スキー好きの父親の影響でスキー少年団に入った。

 家にクルマがなかったので練習が終わった後でひとりでスキーを担いで暗い道を帰った。

・体は小柄で体力も運動神経も平均以下だった。

・中学時代、野球部。

 守備をしている時にいつも「打球が飛んで来ないように」と祈っていた。

・高校時代、空手をやっていた。

・高校時代、学園祭の演劇で毎年脚本を書いて賞を受賞(3年の時は総合優勝)。

・17歳の時、母親が肺がんで他界。

・高3の時から2年間、2歳年上の女性と交際。

・高校卒業後、都会に憧れて特に目標を持たずに上京して川崎市に1年間住んだ。

 牛丼屋、警備員(東京駅)のアルバイトをした。

   1年後に北海道に戻って大学に進学した。

・大学時代、当時交際していた彼女の希望で将来公務員になろうと思っていた。

・大学時代、彼女にフラれたショックで部屋に1週間以上ひきこもった。

 寝床に黒い人型のカビが生える程寝続けた。

・大学時代、毎年学園祭で過激なショーをやった。3年の時に全裸でギターを演奏した。

 大学から危険人物とみなされて2回退学勧告を受けた。

・大学時代、2年間交際していた2歳年上の彼女に

 「そんなに好きじゃなかった」と言われてフラれた。 

 その女性が登山をしていたので未練から山岳部(他の大学の山岳部)に入った。

・大学時代、山岳部の主将と一緒に1週間の冬山縦走(中山峠〜銭函)で年越しをした

 (テントの中でお雑煮を食べた=02年〜03年)。

・大学の卒業式前日から当日の朝にかけて24時間100㎞マラソンに挑戦、

 最後の5㎞で力尽きてタクシーを使ってゴールした。

■栗城史多

 

□私生活

・好物…冷やし中華。

・07年から禁酒中(=11.08現在)。

・握力、脚力、肺活量全てが成人男性の平均以下。

 肉体に負荷がかかった状態で呼吸と心拍数を一定に保つ能力に優れている。

 疲労が増した状態で乳酸値が下がる特殊体質。

・音痴。

・足首が硬い。正座ができない。

・先端恐怖症。注射が大嫌い。

・住んでいる所…北海道札幌市(=10.06現在)。

・春から夏にかけての清々しい季節が好き。

・語学が苦手。外国語を全く話せない。

・座右の銘…「全てに感謝」。

・普段は低姿勢で声が小さい。

・父親が今金町の河川敷で温泉を掘り当てた。

 そこだけ雪が解ける場所に目を付けてひとりで掘り続け、

 次第に協力者が増えて5年後に温泉を掘り当てた。

 その場所に温泉施設と本格的宿泊施設が建てられた。

・友達が少ない。


■栗城史多

 

□人間関係

・児玉毅…プロスキーヤー。親友。

 1ヵ月半のダウラギリ遠征を児玉にサポートして貰った(=09年)。

 アラスカで一緒にヘリスキーをした事がある。

・野口健…登山家仲間。

・津川雅彦…壮行会を開いてくれた。

・森下亮太郎…一番信頼している山岳ガイド。大学の山岳部の主将に山を教えた先輩。

・ラインホルト・メスナー…憧れている登山家。

 アンナプルナにアタックした時にポカラ(ネパール)のカフェで偶然遭遇して話をした。

・浅尾美和…憧れている芸能人。写真集を山に持って行った事がある。

・広末涼子…憧れている芸能人。登頂中に広末の「大スキ!」を聴く。

■栗城史多

 

□エピソードなど

・初の海外遠征で北米大陸最高峰・マッキンリーの単独登頂に成功(=04年)。

 先輩から何度も中止するように言われて最終的に山岳部を退部した。

 山岳界の先輩だけでなく親戚・知人などあらゆる人から反対された。

 高度障害で視界が紫色になって意識を失いそうになった(意識を失ったら死んでいた)。

・南米最高峰・アコンカグア(ポーランド氷河)の単独登頂に成功(=05年)。

・チョ・オユーの登頂の過程を日本テレビのサイトで動画配信(=07年)。

・世界6番目の高峰マナスルの単独無酸素登頂(日本人初=08年)。

 山頂からのスキー滑降で下山。 

・ダウラギリからのネットライブで水に濡れると爆発する軍用のバッテリーを使った。

・ダウラギリの山頂には「目印」としてポーランド人の遺体がある。

・エベレストの単独無酸素登頂に挑戦(7950m地点で断念=09年)。

 6000m地点で流しそうめん、7400m地点でカラオケをやった。

 中国サイドの政治的理由からネットライブ中継の許可が下りなかった。

・著書「一歩を越える勇気」を出版(サンマーク出版=09年)。

・アンナプルナの第1峰(8091m)の単独無酸素登頂に挑戦(頂上目前で断念=10年)。

 テントでひとりで休息中に幻聴を体験した。

 右手が凍傷になり体調悪化で高熱と血尿の症状が出てヘリコプターで病院に搬送された。

 ※アンナプルは登頂者の41%が死亡する世界一危険な山としてギネスブックに載っている

・持参したカメラで主観映像を中心に撮影する。

 自分が歩くシーンを撮影する時は据え置いたカメラを取りに戻る。

・インターネットでの配信やライブ中継のテーマは「冒険の共有」。

・「ニート登山家」「わらしべ登山家」と呼ばれた。

・下山中に100m以上滑落して死にかけた事がある。

・クレパスに落ちかけて死にかけた事が何度かある。

・登山中に脳浮腫になった事がある。

・ひとりで登頂する方が危険に対して意識が敏感になる。

・自ら企画書を作って代理店、テレビ局、企業、ポータルサイトなどに営業する。

 社長面談で断られると言外に含みを持たせて知り合いを紹介して貰う。

・日本滞在中は月10回以上講演を行う。

 講演会で「夢が叶う叶わないは関係ない。夢をもつことに意味がある」と必ず言う。

・自分の弱い部分、ダメな部分をブログなどでさらけ出す。

・プロボクサーの人をコーチにマンツーマンでトレーニングをしている(=11.08現在)。

 加圧トレーニング、ピラティス、水泳をやっている。

 食事はお昼にツナとプロテイン、朝晩はほとんど摂らない。

・7大陸最高峰のうち6座の単独登頂に成功。

・世界の8000m峰14座全てに挑戦したいと思っている。

 登頂の過程をインターネットライブ中継する予定(世界初)。

・最終アタック用の食糧として江崎グリコに特製バーを作って貰った

 (チョコレートとようかんをあわせて大量のカフェインが入っている)。

・日本人初のエベレストの単独無酸素登頂に3回挑戦して3回失敗(=12.09現在)。

凡例:18.01現在=2018年1月現在

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